宗勝寺の歴史

宗勝寺の歴史

脈々と受け継がれる法灯

第一章 法華経寺三世 日祐上人

日祐上人(1290-1369)は宗勝寺と深い結縁があった。『辻説法』では日蓮聖人入滅以来、右に出る者なしとまで高名で、中山法華経寺(現在の千葉県市川市中山)三世として活躍。関東・九州での布教を精力的にされ、各地に拠点をつくり弟子たちの柱となった。 香取郡内での露座説法は特に有名である。当地篠原村(現在の千葉県香取市篠原)でも、八幡宮の境内に草庵を設け説法をしていた。自ら彫った日蓮聖人像は、里人たちによって大事に守られていた。

中山法華経寺 現在の千葉県市川市中山

第二章 須坂藩初代藩主 堀直重公

堀直重(1584-1616)は、大阪冬の陣・大阪夏の陣などで、活躍した武将である。  大阪夏の陣では徳川方の土井利勝軍の先鋒となり、毛利軍に奪われた味方の軍旗を、敵を城壁に追い詰め奪い返した功績により、徳川家康から4千5百石の加増をうけている。  凱旋した直重公は、下総香取の領地2千石を含む1万2千50石の領主として、須坂藩(現在の長野県須坂市)の初代藩主となった。  直重公が没したのは元和2年6月13日。現在でも宗勝寺では、毎年6月13日に、堀直重公追善法要を檀信徒とともに行っている。  直重公の死因は不明であるが、言い伝えによると、下総香取の領地に帰った際、香取神宮の祭礼で奉納相撲を家臣と見物した。その際、香取神宮の神官と争論し、帰りに闇討ちにあって殺されたという。はるかな信濃の須坂の領地を自分の足で踏みしめることはなく、その生涯を33歳という若さで終えたのである。  直重公は、後を追って自害した2人の家臣とともに、市内の曹洞宗新福寺に埋葬されている。宗勝寺には、供養塔・位牌・御尊像の掛け軸が残されている。 法号(戒名)は、『自光院殿前淡州大守籌山宗勝大居士』である。

須坂藩初代藩主 堀直重公

第三章 宗勝寺 開山

日佑上人の教えを代々守り続け、日々の生活をする里人たちの姿に、当地の地頭となった堀直重公は心を打たれた。  中山法華経寺本堂再建には幕命を受けて奉行した自負もあり、里人が法華堂と呼んでいた堂宇を修復し、寺の開基を思い立ったのである。  直重公は自ら本願人となり、中山法華経寺十八世 日慈上人に相談した。日慈上人は、それほどの縁のある法華堂ならば日佑上人の遺訓を活かすことにもなる、と快諾し、終焉の地として当地での布教を選ばれたのである。  直重公も、敷地数百坪を献じた。初めて得た知行地を仏果奉公できること・貫首をつとめた程の上人を迎えられたことに幸せを感じ、日佑上人ゆかりの地で、領民の安穏を願ってやまなかったという。  元和2年(1616)堂宇落慶の法要が行われた。  山号は『法籌山(ほうちゅうざん)』   ※後に中山法華経寺別院として、『法中山』に変わっている  寺号は『宗勝寺』   ※堀直重公の法号にも『宗勝』の文字あり

第四章 その後

元禄の始め 中山法華経寺十九世 日堯上人、当山五世を継ぐ。露地説法によって資を募り、堂宇を修復する。  安永5年(1776) 当山十五世 日琱上人、破損はなはだしく、尊像も安置なり難い堂宇を再建。三十番神堂建立。  昭和6年 当山三十一世 日照上人、現在の本堂建立

第五章 近年の宗勝寺

平成元年、当山三十三世 日孝上人(現 長妙山浄国寺三十六世)檀信徒に懇願され入寺する。  当時山内全域は荒廃。同年7月大改修に着工する。檀信徒・浄国寺三十五世 日史上人・長福寺 日遵上人などの協力により、参道拡張・山内全域の整地・駐車場新設・墓地造成・本堂改修・鬼子母神堂改修・三十番神堂改修・仏具新調・客殿新築する。  平成16年、現住職に法灯が継承され現在に至る。

近年の宗勝寺

近年の宗勝寺は写真館でもご覧頂けます。



参考資料 廣瀬紀子 著 『改訂須坂藩主 堀家の歴史』
伊東五郎 著 『宗勝寺の由来』